こどもが絵を持ってくる。

わたしは「じょうずだね」と言う。

言ったあとで、なんだろう、と思う。うまく言えないのだけれど、いま何かを渡しそこねたような気がしている。

その感じの正体を、ずっと考えている。

賞状をもらった子が、絵を描かなくなった

1973年に行われた実験の話をする。

研究者たちは、保育園のこどもたちをしばらく観察して、それぞれの子が自由な時間に何をしているかを記録した。そして「絵を描くのが好きな子」を選び出した。誰にも言われないのに、自分から紙とペンのところへ行ってしまう子たちだ。

その子たちを、三つのグループに分けた。

ひとつめのグループには、絵を描いたら賞状をあげると、先に約束した。ふたつめには、何も言わずに描かせて、あとから賞状を渡した。みっつめには、賞状の話をしなかった。

しばらくたってから、研究者たちはまた、自由な時間の教室を見にいった。ペンも紙も、いつもと同じところにある。賞状の話は、もう誰もしていない。

賞状を約束されたグループの子たちだけが、絵を描く時間が、ほかのグループの半分くらいに減っていた。

わたしはこれを読んで、うろたえた。

だって、その子たちは、何も奪われていないのだ。

賞状はうれしいものだった。叱られたわけでもない。失敗させられたわけでもない。うれしいものを、ただ一枚もらっただけだ。

それで、描かなくなった。

足したのに、減っている

研究者たちの説明は、こうだ。

はじめ、その子が絵を描く理由はひとつだった。描きたいから描く。理由は自分の内側にあった。

そこへ、賞状という外側の理由が足される。すると、その子は自分のしていることを、知らないうちに言いなおす。ぼくは、賞状をもらうために描いているのだ、と。

そして賞状が出なくなると、その理由も消える。もとの理由は、押し出されて、もうどこにもない。

これは「過剰正当化」と呼ばれている。

理由を足すと、もとの理由が追い出される。

わたしはこの一文のところで、しばらく止まってしまう。足し算をしたのに、残高が減っているのだ。そんなことが、あるのか。

でも、あるのだと思う。心当たりがありすぎる。

わたしは統計のことがよくわからない

正直に書いておくと、この実験は、そのまま定説になったわけではない。

1994年に、たくさんの実験をまとめて調べた論文が出て、「報酬が意欲を損なう効果は、あったとしてもとても小さい」と結論した。

もっともな疑いだと思う。学校も職場も、報酬なしには動いていない。

1999年に、こんどは128件の実験を集めた分析が出て、それに反論した。取り組むことに対して、課題を終えることに対して、成績に対して、目に見える形で、先に約束された報酬が渡されると、自分から進んでそれをする時間は減る、と。

効果の大きさは、-0.40、-0.36、-0.28。小さめから中くらいと呼ばれる幅なのだそうだ。

わたしは統計のことがよくわからない。この数字がどれくらいのことなのか、実感としてはつかめない。

それでも、これは魔法ではないのだな、ということはわかる。ごほうびを渡した瞬間に何かが壊れる、という話ではない。ただ、平均すると、その方向に押される。それだけのことだ。

それだけのことが、けれど、こわい。

そして、この現象の形からして、当然の限定が出てくる。押し出すものが最初から無ければ、押し出されようがない。1973年の実験が、わざわざ「絵を描くのが好きな子」を選んだのは、そのためだ。

つまりこれは、嫌いなことをやらせる話ではない。好きなことに、値札をつける話なのだ。

罰金を払えば、遅れてもいい

もうひとつ、話をする。舞台はやはり保育園で、けれどこちらは経済学の研究だ。

2000年に発表されたもので、イスラエルのハイファにある私立の保育園、10か所が調べられた。どこの園にもある困りごとが対象だった。お迎えの時間に、親が来ない。

6つの園に、遅刻の罰金が導入された。残りの4つは、そのままにした。

罰金が入って、遅刻は増えた。

いちばん胸に残るのは、そのあとだ。しばらくして、罰金はなくなった。それでも、増えた遅刻は、元に戻らなかった。

研究者たちは、こう解釈している。罰金が入る前、遅刻は「先生に迷惑をかけること」だった。罰金が入ると、遅刻は「お金を払えば買えるもの」になった。

値札がついた瞬間に、それは道徳の話から、取引の話に移ってしまった。そして、いちど取引になったものを、道徳に戻すことは、できなかった。

わたしはこの話を、しばらく手のなかで持っていた。

ところが、再現しなかった

ここで終われば、きれいな話になる。ならないのだ。

2020年に、この研究を別のやり方でやり直した論文が出た。オンラインでたくさんの人に、架空の状況を見せる。罰金があるとき、ないとき、あなたはどうしますか、と尋ねる。

再現しなかった。

罰金があると言われた人たちは、違反を減らすと答えた。値札が道徳を追い出す、という筋道を支える証拠は、ほとんど出てこなかった。

では、どちらが正しいのだろう。

わたしにはわからない。

ただ、二つの研究が同じものを測っていたのか、ということは、考えてみたい。

片方は、実在する保育園で、自分のこどもを迎えにいく親が、実際にどうふるまったかの記録だ。もう片方は、画面の前にいる人が、架空の保育園について、自分ならこうすると答えた回答だ。

同じ、なのだろうか。

わたしたちが「これは実証されている」と言うとき、その裏には、たいていこういう分かれ道が隠れている。わたしはそのことを、忘れないでいたい。

わからない、と言うのは、とてもむずかしい。わかったことにしてしまうほうが、ずっと楽なのだ。

だから、ここまでにしておく。値札をつけると意味が変わってしまうことがある、という可能性は、まだ生きている。けれど、確かな法則として振りまわせるものではない。

わたしたちは、記録をしない

そのうえで、わたしたちがしていることを書く。研究がそう命じているからではない。研究を読んだうえで、選んでいることだ。

もりのひには、発表会がない。級も、賞も、コンクールもない。作品を並べて順位をつけることもしない。

理由は、いま見てきた道すじと同じだ。何かに値札がつくと、活動の重さの中心が動いてしまう。おもしろいかどうか、から、どう見えるか、へ。

この移動は、こどもが怠けているから起きるのではない。測られるとわかった瞬間に、測られる形へ自分を合わせるのは、聡さのあらわれだと思う。こどもは、大人が思っているよりずっと敏感だ。

わたしたちが見ているものは、ひとつだけだ。

「もう一回」と言うかどうか。

それだけを見ている。回数も点数も記録しない。記録した瞬間に、それが値札になってしまうから。

念のために書くけれど、見せてくれることを止めているのではない。捕った虫を持ってくる。泥だんごを差し出す。覚えた歌を歌いたがる。あれは内側からこぼれ出たもので、止める理由がどこにもない。差し出されたら、一緒に喜ぶ。

止めているのは、締め切りと、観客と、審判のいる仕組みのほうだ。

「どうやったの?」

はじめの話に戻る。

「じょうずだね」は、判定だ。短くて、あたたかくて、悪意なんてどこにもない。それでも、言った瞬間に、わたしは審判の席にすわっている。うまい、へた、という物差しが、そこに置かれてしまう。

「どうやったの?」は、質問だ。判定ではないから、物差しが出てこない。そして、答えるのはこどものほうだ。

流行りの言い方をすれば、褒め方を変えるとこどもが伸びる、という話になるのだろう。わたしはそうは書かない。褒め方ひとつで何かが決まるとは思っていないし、そういう約束をするのは、この文章の趣旨に反する。

言えるのは、これだけだ。

「どうやったの?」と訊いているあいだ、わたしは審判をしていない。そして、たぶん、ほんとうに知りたいと思っている。

一枚の賞状

あの実験のこどもたちから、誰も何も取り上げていない。

ペンも紙も、そこにあった。叱られてもいない。うれしい賞状を、一枚もらっただけだ。

足されたのは、理由だった。

わたしは、ときどき、あの一枚の賞状のことを考える。

読んだもの

数字や条件は、下の文献に書かれているとおりに引いた。強めても、弱めてもいない。どれも英語だけれど、興味のある方は覗いてみてほしい。


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