1973年 スタンフォード大学の附属保育園。実験ひとつ。
研究者、まず園児を観察。自由時間に何をして遊ぶかを記録。そして絵を描くのが好きな子を選び出す。誰にも言われず、自分から紙とペンに向かう子。
三群に分ける。
- 一群 — 描いたら賞状をやる、と事前に約束
- 二群 — 何も言わず描かせ、あとで賞状を渡す
- 三群 — 賞状の話ゼロ
しばらく後、また自由時間を観察。ペンも紙も同じ場所。賞状の話は誰もしていない。
賞状を約束された群だけ、描く時間が他の群のおよそ半分に減っていた。
賞状、うれしかった
不思議な点。賞状は不快なものでない。こどもたちは喜んだ。叱られてもいない。失敗させられてもいない。うれしいものを、ただ受け取っただけ。
それでも描く時間は減った。
研究者の説明。描く理由が書き換わった。
元は「描きたいから描く」。理由はひとつ、内側にあった。そこへ賞状という外側の理由が足される。こどもは自分の行動を説明し直す。「賞状をもらうために描いている」。
賞状が出なくなる → 理由も消える。元の理由は押し出されて、もう手元に無い。
名前は「過剰正当化」。理由を足す → 元の理由が追い出される。 足し算したのに残高が減る。
四十年の論争
正直に続ける。定説になっていない。
1994年。複数の実験をまとめたメタ分析が「報酬が意欲を損なう効果は、あってもごく小さい」と結論。もっともな疑い。教育も職場も、報酬なしでは動いていない。
1999年。128件を集めたメタ分析が反論。整理はこう。取り組みに対して、課題の完了に対して、成績に対して、目に見える形で事前に約束された報酬が渡される → 自分から進んでそれをやる時間が減る。 効果量は順に -0.40 / -0.36 / -0.28。研究の世界で小さめから中くらいと呼ばれる幅。
魔法でない。ごほうびを渡した瞬間に何かが壊れる話でない。平均するとその方向に押される、それだけ。
現象の形から、当然の限定が出る。押し出すものが無ければ、押し出されようがない。1973年の実験がわざわざ「絵が好きな子」を選んだ理由がこれ。
つまり嫌いなことをやらせる話でない。好きなことに値札をつける話。
ハイファの保育園
もうひとつ。舞台は保育園、中身は経済学。
2000年発表。イスラエル・ハイファの私立保育園10施設。問題は「お迎えの時間に親が来ない」。
6施設に遅刻の罰金を導入。残り4施設はそのまま。
罰金が入って、遅刻は増えた。
そして一番効く部分。しばらく後に罰金は撤廃された。増えた遅刻は、元に戻らなかった。
解釈。罰金の前、遅刻は「先生に迷惑をかけること」。罰金の後、遅刻は「金を払えば買えるもの」。値札がついた瞬間、道徳の問題が取引の問題に移った。一度取引になったものは、道徳に戻せなかった。
ところが
ここで終わらせたい。終わらせない。
2020年、同じ研究を別の方法でやり直した論文。オンラインで大勢に仮想の状況を提示し、罰金があるときとないときの選択を尋ねる設計。
再現しなかった。 罰金を提示されると、人は違反を減らすと答えた。「値札が道徳を追い出す」を支持する証拠は、ほとんど出なかった。
どちらが正しいか。分からない。
ただし考える価値がある。二つの研究は同じものを測っていたのか。片方は実在の保育園で、自分のこどもを迎えに行く親が実際にどう動いたかの記録。もう片方は画面の前の人が、架空の保育園について「自分ならこうする」と答えた回答。
「実証されている」の裏には、たいていこういう分岐が隠れている。世界は、期待するほどはっきりした答えを返してこない。
だから言えるのはここまで。値札で意味が変わることがある、この可能性はまだ生きている。確定した法則として振り回せるものではない。
もりのひに発表会が無い理由
以上を踏まえて、うちのやっていること。研究がそう命じているからでない。研究を読んだうえでの選択。
発表会なし。級なし。賞なし。コンクールなし。作品を並べて順位もつけない。
理由は同じ筋道。値札がつく → 活動の重心が動く。「面白いか」から「どう見えるか」へ。この移動は、こどもが怠けているから起きるのでない。測られると分かった瞬間、測られる形に自分を合わせる。聡さの現れ。
見ている指標はひとつだけ。「もう一回」と言うか。 それだけ。回数も点数も記録しない。記録した瞬間、それが値札になる。
念のため。「見せてくれること」を止める話でない。捕った虫を見せる。泥だんごを差し出す。覚えた歌を歌いたがる。あれは内側から溢れたもの。止める理由ゼロ。差し出されたら一緒に喜ぶ。
止めているのは、締め切りと観客と審判を備えた、外から求める仕組みのほう。
「じょうずだね」と「どうやったの?」
家でできることをひとつ。
「じょうずだね」は判定。短く、あたたかく、悪意ゼロ。それでも言った瞬間、大人は審判の席にいる。うまい・へたの物差しがそこに置かれる。
「どうやったの?」は質問。判定でない → 物差しが出ない。答えるのはこどものほう。
流行りの言い方なら「褒め方を変えるとこどもが伸びる」。書かない。褒め方ひとつで何かが決まるとは思っていない。そういう約束は、この記事の趣旨に反する。
言えるのはこれだけ。「どうやったの?」と訊いているあいだ、大人は審判をしていない。そして、たぶん本当に興味を持っている。
もう一度、1973年へ
あの実験のこどもたちから、誰も何も取り上げていない。ペンも紙もそこにあった。叱られてもいない。うれしい賞状を一枚もらっただけ。
足されたのは、理由。
出典
- 過剰正当化の元の実験: Undermining children's intrinsic interest with extrinsic reward(1973年・英語)
- 128件の実験のメタ分析: A Meta-Analytic Review of Experiments Examining the Effects of Extrinsic Rewards on Intrinsic Motivation(1999年・英語)
- ハイファの保育園: A Fine is a Price(2000年・英語)
- その再現を試みた研究: Is a fine still a price? Replication as robustness in empirical legal studies(2020年・英語)
本文の数値は上記に記載のもの。効果の大きさも条件も、強めても弱めてもいない。
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